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岡田村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
岡田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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岡田村(近世) 江戸期~明治14年の村名丹後国竹野郡木津郷のうち木津川上流に位置する「慶長郷村帳」に「木津庄内岡田村」と見えるが,以降の郷帳類には「木津庄之内岡田分」と記されるはじめ宮津藩領,寛文9年幕府領,天和元年宮津藩領,宝永2年幕府領,宝暦9年からは宮津藩領となる村高は「天保郷帳」「旧高旧領」315石余鎮守は加茂神社同社は長久4年山城国上賀茂神社より分霊勧請したと言い伝え,社宝に鰐口1個があり,銘文に永享3年奉納云々の文字が見える(府史蹟名勝天然記念物調査報告11)寺院に曹洞宗湖秀山竜献【りようごん】寺がある同寺は,建治2年永平寺の世代義雲禅師が来郷した際,里人がその徳をたたえて網野郷の離湖にある離山に建立したもの永平寺の直末小本山として栄え,当時末寺が38か寺もあったが,承応2年宮津藩領主京極高国によって堂宇ことごとく焼かれた地内の今井にある木津城址は元弘年間の木津庄毛呂弥八郎の居城に比定され,また天正年間には一色氏の家臣赤尾但馬守の居城であった(丹後旧事記)明治4年宮津県,豊岡県を経て,同9年京都府に所属同13年の戸数82(木津村自治五十年記念誌)同14年木津村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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岡田村(近世) 江戸期~明治9年の村名津軽郡田舎庄のうち津軽平野北部,岩木川支流十川右岸の平坦地に位置する弘前藩領「平山日記」に「同年(寛永)之頃万五郎屋敷村立之節,万五郎と申仁派預ニ付,名と成る,是ハ往還より西之方,東之方へ桜田村派申候,今真黒屋敷岡田と改る」とあり,当村は寛永年間以降開発されて成立したことがわかるはじめは真黒屋敷村の枝村であったが,享保11年同村から分村して独立した(村名改称并新村創立調)村高は,「貞享4年検地水帳」では真黒屋敷村枝村とあり189石余(田175石余・畑屋敷13石余),「天保郷帳」171石余,「旧高旧領」197石余「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「稲葉」があり,枝村である当村の反別は田18町3反余・畑屋敷3町1反余元禄3年には広田組に属し,村位は上(平山日記)用水は広田堰を利用,元禄11年洪水による広田堰破損に際し,七ツ館・真黒屋敷・唐笠柳の各村とともに修復工事を行っている(同前)明治4年弘前県を経て,青森県に所属明治初年の戸数25(国誌)同9年稲実村(もと真黒屋敷村)の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」